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鞠智城は、朝鮮半島・白村江の大敗北(663年)を契機に、当時の大和朝廷が威信をかけて築いた古代山城の一つで、菊鹿町米原(よなばる)を中心に菊池市堀切まで広がる大きな城跡です。内城(約55ha)と外緑地区(約65ha)からなります。 |
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鞠智城温故創生之碑 |
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中央に防人、前面に防人の妻と子、西側に築城の指導をしたと思われる百済の貴族、東側に八方ケ岳に祈りを捧げる巫女、北側には一対の鳳凰が立っています。
台座には、万葉集からの防人の歌(3首)と、城の歴史を解説した6枚のレリーフを掲げています。 |
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鞠智城跡は、7世紀後半(約1,300年前)に、大和朝廷が築いた山城です。当時、東アジアの政治的情勢は、非常に緊張していました。日本は、友好国であった百済を復興するため援軍を送りましたが、663年の「白村江の戦い」で、唐と新羅の連合軍に敗北しました。このため、事態は急変し、直接日本が戦いの舞台となる危険が生じました。そこで九州には、大宰府を守るために大野城(福岡県)、基肄城(佐賀県)、金田城(長崎県)が造られました。鞠智城は、これらの城に食糧や武器、兵士などを補給する支援基地でした。
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【米 原 長 者 伝 説】
菊鹿町米原の「鞠智城跡」に住んでいた米原長者は、千余頭の牛馬を持ち、田畑三千余町を耕していました。 一日で田植えを終わらせることを自慢していたのですが、ある年の田植えでは、陽が沈みかけたので金の扇で太陽をまねきかえし、さらには山に三千樽の油を焚き、その明かりでやっと終えたそうです。 ところが山に火をかけたので長者の屋敷に火の玉が飛んできて火事になりました。辺りからは今でも焼き米が出てきます。 |
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